吉岡洋・哲学とアートのための12の対話 2026

土曜の放課後 3
After School on Saturday

 ー 1 0 の 問 い —

第3回 《自己》──自分とは誰? そしてどこにいる?

日時:2026年5月16日(土曜日) 午後1時30分〜3時30分
会場:A会場 京都女子大学、杉本家KOMEGLAキャンパス
参加者:26名

講座概要:
 昔の人は思いつきもしなかったのに、今は多くの人が患っているらしい心の病いのひとつに、「自分探し」があります。業平の驚くべき女性遍歴も、芭蕉の奥の細道も、自分探しの旅とは何の関係もありません。昔と今との境界はどこにあるかというと、明治以降と江戸以前です。つまり「自分」が問題になるのは近代の現象だということです。もちろん昔の人にも「自分」という観念はありました。しかしそれは顔のようにただそこにあるだけで、失ったり探して見つけたりするようなテーマではありませんでした。

 「自分探し」をしている人に「探しているそのお前が自分ではないか」と教えてあげても、その人は納得しないでしょう。「そんなこと分かっている、しかしこれは本当の自分ではない」という意識があるからです。この意識を外界に投影すると、「ここは自分にとって本当の場所ではない」と言い換えることもできるでしょう。だからこそ「本当の自分」を見つけにいかなければならない、あるいは自分がいるべき「本当の場所」を求めて旅に出なければならなくなります。私たちは多かれ少なかれ、たとえ自分は実行しなくても、この切羽詰まった旅への欲求を理解しています。

 ここではない場所へと旅に出ること──このこと自体は、昔か今かにかかわらず、人類にとって普遍的な意味を持っています。初期人類においては、若い個体が住み慣れた群れから出ることは、他の群れと交流したり、食料などの資源を見つける機会となるので、そうした好奇心が進化の上で有利に作用したであろうと想像されます。私たちが旅に憧れる心情はそうした生物学的基盤に支えられているのですが、その旅で求められる目的が、他の群れの異性との交配や新しい食べ物の発見などではなく、「本当の自己」という抽象概念に置き換えられたものが、「自分探し」だと言えます。「青年は荒野をめざす」(五木寛之、ザ・フォーク・クルセダーズ)ですね。

 一方、日本文化に深く入り込んでいる仏教的世界観においては「無我」が重視されており、私たちの多くも心の奥では、探すべき「自分」なんてないんじゃないか?という朧げな感覚を持っているのではないでしょうか。次回の「土曜の放課後」では、この近代的な「自分」「自己」「自我」「私」といったものの正体を、哲学の風景に置いて眺めてみたいと思います。(吉岡 洋)



講座資料
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