日時:2026年6月20日(土曜日) 午後1時30分〜3時30分
会場:A会場 京都女子大学、杉本家KOMEGLAキャンパス
参加者:24名
講座概要:
「性」とは「自然」なのか「文化」なのか。ハッキリしている歴史的事実は、「性は自然である」という考えは古くからあったのに対して、「性は文化である」の方は比較的新しいということです。どれくらい新しいかというと、「革命」以降です。フランス革命の「自由・博愛・平等」という理念には性差はありません。もちろん革命後といっても最初から男女平等が実現されたわけではないし、男性の参政権ですら納税額によって制限されていました。しかし「人権」という概念には、すべての人間は同じであるべきという要求がビルトインされています。それは時限爆弾のように、現代の民主制や普通選挙に向かって時計の針を進めてきました。
自然は変えることはできませんが、文化なら変えることも、選択することもできます。もしも「性」が、基本的人権を持つ「人間という(無性の)存在」に後から押し付けられた条件付けに過ぎないとしたら、そんなお仕着せは拒否することもできるでしょう。そして確かに、「男らしさ」や「女らしさ」の基準が歴史や地域によって様々であるという事実は、「性」とは裸の身体が着る衣服のような、着脱可能なものであることを示しているようにも思われます。もしそうなら、気に入らない服は脱ぎ捨てて、もっと自分に合った服に着替えるのは当然のことでしょう。
しかしここで、前回のテーマであった「自分とは誰か」という問題にぶつかります。「自分」とはいわば「裸の身体」で、その上に「性」をはじめとする様々な文化的・社会的役割が衣服のように着せられるという喩えは、分かりやすいですが、罠もあるのです。「裸の身体」はたしかにここにあるけれど、「人間という(無性の)存在」というのは、前回に論じた「本当の自分」と同じく、幽霊のような抽象概念だからです。幽霊はただ徘徊しているだけなら無害なのですが、問題は、それが正体不明であることによって、政治的・商業的に悪用されるという点です。
私たちに「本当の自分」を探させることで「自分探し」ビジネスが可能になり、社会を孤立した個人へと分断する政策が進められるように、「性はあなた自身が選択できる」という考えを過度に一般化することで、様々な歪みが生じています。もちろん「自分探し」や「性の選択」を本当に必要としている人は存在します。しかし問題は、そうした当事者とは無関係なところで「性」が特定の利益や政治的誘導に利用されていることです。次回は「性」をめぐる私たちの思考の底にある哲学的問題についてお話したいと思います。(吉岡 洋)